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那古野は名古屋の由来!那古野城の跡地に名古屋城築城の理由も

この記事では、次のことが書いてあります。

・那古野は名古屋の由来で古い表記の一つ

・那古野城の跡地に名古屋城を築城

・那古野の読み方が「なごや」から「なごの」に変わった時期

興味のある方は、是非ご覧ください。

那古野は名古屋の由来で古い表記の一つ

名古屋の6つの古い表記

名古屋は、明治22年の市制施行までに以下の6つの表記がありました。

  1. 那古屋
  2. 名護屋
  3. 名古屋
  4. 名越
  5. 浪越
  6. 名児屋

そして、この中で最も古い表記なのが那古野です。

那古野が歴史的に出現したのは、平安時代(794~1185年)の末期です。

「尾張国那古野荘」が作られたのが始まりです。

なので、那古野は名古屋の由来と言われています。

 

表記が名古屋に統一

1610年、徳川家康によって名古屋城が築城され、尾張の中心だった清須の町ごと名古屋へ引っ越す清須越を行いました。

名古屋城下が開かれた時に名古屋と名護屋の2つの表記が使われていました。

しかし、明治22年の市制施行により、名古屋と統一されました。

 

那古野城の跡地に名古屋城を築城

那古野城の変遷

室町時代(1336~1573年)に現在の名古屋城二之丸の辺りに那古野(なごや)城がありました。

那古野城は城主が度々変わり、廃城になりました。

那古野城の変遷以下の通りです。

1521~1524年 今川氏親(いまがわうじちか)が柳之丸(やなぎのまる)を築城
1538年 織田信秀が今川氏豊(いまがわうじとよ)を追放して城を奪い取る
地名から城の名前を那古野(なごや)城と改める
1546年 織田信秀が古渡城を築き移り住む
息子である織田信長に那古野城を譲る
1555年 清須城に織田信長が移る
那古野城の城主には織田信光
1556年 織田信光の没後に重臣の林秀貞(はやしひでさだ)の居城になる
1582年 織田信長にとって重要な拠点ではないため廃城

 

廃城された那古野城に名古屋城が築城された理由

名古屋城を築城させたのは徳川家康です。

なぜ家康は、織田信長にとっては重要な拠点とならなかった那古野城の跡地に名古屋城を築城させたのでしょうか。

当時、尾張の中心は清州城でした。

徳川家康は九男の義直を清須城主として城の大修理を計画しました。

そこで、家臣の山下氏勝(やましたうじかつ)は以下の2つのポイントで名古屋への城の移転を提案します。

名古屋への城の移転ポイント1.
洪水の被害や水攻めに合いにくい
清州城は、低地のため度々洪水の被害に見舞われた
また、戦の際に水攻めに合う恐れがある
名古屋は、台地のため清州より優れている
名古屋への城の移転ポイント2.
交通の便がいい
名古屋は、大坂と江戸へ行きやすく、清州よりも熱田の港も近いので船の移動もしやすい

台地:周辺に比べて盛り上がっている平らな台地

この提案を徳川家康が受け入れて、名古屋城の築城を決めました。

それと同時に、清州を町ごと名古屋へ引っ越す「清州越」を計画しました。

こうして、現在の名古屋の街の原型が徳川家康によって作られました。

 

那古野の読み方が「なごや」から「なごの」に変わった時期

那古野は名古屋の古い表記で、「なごや」と呼ばれていました。

現在の西区と中村区の地名の那古野は、「なごの」と呼ばれていて一般的になっています。

一体いつごろから「なごの」と呼び方が変わったのでしょうか。

西区・中村区の那古野「なごの」の成り立ちを簡単に表したのが以下の表です。

明治22年 愛知郡那古野「なごや」村が成立
明治31年 名古屋市に編入
明治35年 名古屋市那古野町になる
明治41年 名古屋市西区那古野町になる
昭和52年 名古屋市西区那古野(一~二丁目)になる

上記の表より詳しい那古野「なごの」の成り立ちを記載した記事はこちらです。

明治22年成立した那古野村は「なごやむら」と呼ばれていました。

那古野を「なごの」と呼ぶようになったのは、明治35年の名古屋市に編入されて以降だと推測されています。